ブログの更新ができないでいるうちに2022年ももう1ヶ月が経ってしまいました。
実は新年早々、我が家は家族が相次いで新型コロナウィルスに感染するという散々な1ヶ月だったのです。
私は回復までに14日間も要しましたし、息子は39度以上の高熱とひどい咳で救急車で搬送する事態になリました。
とりあえず今年最初の記事は、昨年末のプーリア州レッチェへの帰省からの散々な1ヶ月について、3本シリーズで書こうと思います。(以下敬語は省きます。)
私が新型コロナウィルスに感染するまで
私は昨年12月末にクリスマスを過ごすために帰省していたプーリア州レッチェの夫の実家で感染することになった。
夫は家族親戚が多くクリスマスは大人数が夫実家に集うので絶対ヤバイと思っていたが、昨年もコロナ禍で見送ったクリスマス。
雰囲気的に今年まで帰らないわけにはいかず、私は内心覚悟の上だった。
2日かけてトスカーナ州ヴェルシリアからプーリア州レッチェまで南下
↑トスカーナ州ヴェルシリアからプーリア州レッチェまでは、通常は約10時間の道のり。
イタリアを縦断しての帰省。
息子が生まれてからは、息子の負担も考えて途中で1泊し、2日かけて南下することにしていた。
クリスマスイブ前夜の23日、最短ルートであるローマを経由はクリスマス前で大渋滞が発生しており、今回はマルケ州・アブルッツォ州経由の東側のルートにした。
それでも何度も大渋滞に見舞われ、1日目の途中経由地点まで9時間もかかった。
飽きておやつも食べ尽くして機嫌の悪さがMAXに達した息子を鎮める方法はただ一つ、iPadでの動画再生のみだったが、iPadの電池も終わりを迎えそうなギリギリのタイミングでようやく到着した。
初日に宿泊したアブルッツォ州のホテルは、オフシーズンの上のコロナ禍で宿泊客は私達のみのようだった。
翌24日、アブルッツォ州のペスカーラ近辺は万年道路工事のためいつも通りの渋滞しており、夫実家の到着は18時過ぎとなった。
クリスマス前後の移動はかなりハードだ。。
クリスマス〜年末は毎晩のように大人数でディナー&カードゲーム
24日のクリスマスイブから年末にかけ、夫実家には毎晩のように家族親戚が集まった。
日中は夫が在宅で仕事をしていたので私も息子と家で過ごし、夜になると続々と人が集まり、一緒にディナーをして食後はカードゲーム(ブラッコ:Burraco))を楽しんだ。
小さな甥っ子姪っ子達も含めて総勢16名と、それはまあ恐ろしく賑やかな夜を過ごした。
親戚内で相次ぐ濃厚接触者
そんな中で美容師をしている義姉の職場で新型コロナの感染者が出たらしく、彼女は濃厚接触者となった。
義姉はイブの日から2-3日はマスクをつけていたが、抗原検査を受けて陰性が判明するとすぐにマスクを外した。
次に義弟の婚約者も濃厚接触者だったことが判明した。
彼女は私達が到着した日から右目が異様に充血していて周りから心配されていたし、少し咳もしていた。
もう絶対感染者が出てもおかしくない状況だった。
喉が痛い…気がする?新型コロナウィルスの初期症状
そんな感じで夫実家の滞在も7日が過ぎた頃、ついに私に怪しい症状が現れた。
発症1日目。喉が少し痛い…ような気がする?
夫実家に到着して1週間が経とうとしていた12月30日の夜。
この日も甥っ子や義両親達と夕食後にブラッコ(Burraco)を楽しんでいた私は、心なしか喉が痛いような気がした。
風邪の前触れのような感じだ。
しかしこの時はグラッパを飲んだら痛みは無くなってしまったので大して気にしなかった。
発症2日〜3日目。急激な体調悪化
翌日、2021年大晦日の12月31日(金)。
この日の夜も一緒に新年を迎えるために夫の家族親戚が続々とマンマの家に集まった。
そして私は再び喉の痛みを感じ始め、やがて鼻水も出て来て両目にジワジワする違和感を覚えたが、一晩寝れば治るだろうと思っていた。
しかし翌日、年を跨いだ2022年1月1日。
諸症状は悪化もしなかったが良くもならず、体調は優れなかった。
しかし、この日は義両親への感謝の気持ちを表すために地元のアグリツーリズモを予約していたのでキャンセルするわけにもいかなかった。(今思うととても申し訳ないことをしてしまった。)
アグリツーリズモで美味しい南プーリア料理を堪能して義両親にも喜んでもらい、満足して帰って来たその夜。
私の体調は急激に悪化し始めた。
激しい頭痛が始まり、喉の痛みは一層強くなり鼻水が滝のように出始めた。
インフルエンザのような嫌な悪寒が走っていたが、熱は36.4度と平熱だった。
新型コロナウィス陽性!症状の1度目のピーク
夫や義家族は私に熱が無かったことからコロナのわけがないとずっと否定していたが、私はこれはコロナだろうとほぼ確信していた。
発症4日目。指定薬局での抗原検査
1月2日(日)、発症4日目。
私の体調はますます悪くなり、頭痛が酷くてまともに会話もできず、両目もたこ焼き器の上で焼かれているかのようにジワジワと痛み、空気が目に沁みた。
それでも熱は平熱だった。
朝食後、熱が無いのに検査しても無駄だという夫を説得して指定薬局での検査に連れて行ってもらうことになった。
この日は日曜日だったが、街の薬局は持ち回りで抗原検査の対応のために開いていた。
薬局の入口の表には「本日はコロナ検査のみ対応」という紙が貼られていた。
嵐の前の静けさなのか、この日は並んでいる人は1名のみで空いていた。
レジで保険カード(tessera sanitaria)を提示し、会計を済ます。(12€)。
裏口に回り、外でぼんやりと順番を待つ。
防護服に身を包んだ女性が出て来て私の名前を呼ぶと、裏口の前に立たされて両鼻と喉に綿棒をズブっと突っ込まれた。
…痛い。
そしてまた薬局の外の道端に立って結果が出るのを待つ。
結果は陽性!
10分弱で再び呼ばれ、検査結果が書かれた紙を渡された。
渡された紙を見ると、”positivo(陽性)”の記載。
(やっぱり)と思っている私の横で夫は顔面蒼白。今の今まで私の症状がコロナだとは全く思っていなかったらしい。
夫は実家に私の結果を報告しつつ慌てて自分も検査をしに行った。
夫は陰性だった。
義実家へ戻ると、昼食のためにベビーチェアに座らされた息子が大泣きして暴れており、さすがの義両親も困惑していた。
夫も私も見当たらない状況に不安になってしまったのだろう。
泣きじゃくる息子を抱き上げてほっぺをスリスリしたい気持ちをグッとこらえ、私はそそくさと2階へ上がった。
隔離の開始
こうして私は夫の実家で隔離生活をすることになってしまった。
とはいえ私が感染したのが義実家でラッキーだったかもしれない。(と考えることにしている)
夫1人で息子の面倒を見ながら3食を用意するなど、どう考えても不可能だ。
食事はマンマの出来立ての料理をパパがお盆の上に乗せて部屋の前に置いた椅子の上に乗せてくれた。
冷たい弁当ではなく温かい食事を毎食自動的に部屋の前に用意してもらえることなど、この先二度とないかもしれない。
とても有難かった。
しかし申し訳ないことに私達がゲストルームとして使っていた一番広い部屋を私が1人で使うことになってしまったので、夫と息子は義両親の寝室で、義両親は義弟が使っていた部屋で寝ることに。
寝床を失った義弟はリビングのソファに追いやられてしまった。
発症4日目の夜。発熱・嗅覚喪失・両目の痛み・下痢
回復に専念するために午後からずっとベッドで寝ていたが、その夜はさらに具合が悪くなり、熱が出てきた。測ってみたら37.6℃。
熱は高くないのに恐ろしくしんどかった。まるでインフルエンザのようだ。
しんどい中でも自慢の食欲は健在だったので起き上がって夕食を食べたが、ここで異変を感じた。
嗅覚が全く機能していない。
口に含んだ食べ物の香りが全く分からなくなっていた。
鼻詰まりのせいかとも思ったが、普通の鼻詰まりなら鼻を噛む瞬間にうっすら臭いが分かるのにこの時は何も感じることができなかった。
せっかくのマンマの料理もこれでは台無し…悲しい。
さらに両目の灼熱感を伴った痛みも増して目を開けているのもしんどく、お腹も緩くなり、この日は一度目のピークだったと思われる。
症状の一時的な回復と歯肉炎
発症5日目以降からは一旦は徐々に回復していき、一時は暇を持て余すくらい元気になった。
しかし新たに歯肉炎の症状が出てきたことが気になった。
発症5日目〜6日目。回復傾向と同時に始まった歯肉炎
1月3日(月)、発症5日目。
熱は平熱に下がり、昨日のしんどさは大分ラクになった。
「峠を越した」という感覚だったが、相変わらず鼻水は出続けて頭も重く、この日も寝たり起きたりの繰り返し。
幸い夫の会社はこの週がバケーションだったため、息子は夫にお任せすることができた。
1月4日(火)、発症6日目。
辛かった鼻水がようやく止まり、頭痛もかなり軽くなった。
発症当初から感じていた独特な肩の重みや頭の重さが久しぶりにスッキリしたようだった。
しかし両目の沁みるような痛みは未だ残っており、嗅覚も依然完全に感じなかった。
また、新たに気になる症状が現れ始めた。
昨年突如出現した右上奥の生えかけの親知らずの歯茎が痛み出したのだ。
発症7日目〜8日目。歯肉炎の悪化
1月5日(水)、発症7日目。
辛かった症状はほぼ無くなったが、歯肉炎が酷くなってきた。
一日起きて机に向かえるようになるほど回復したものの部屋の外を出歩くわけにもいかないので、勉強をすることにした。
1月6日(木)、発症8日目。
この日はイタリアの第2のクリスマスと云われるエピファニア(epiphania)の祝日だった。
子供達はベファーナ(Befana)という魔女から靴下一杯のお菓子をもらえる日で、長いクリスマス休暇の終わりの日でもある。
いつもならマンマの家には甥っ子姪っ子達が集うのだが、今年は誰も来ることなく寂しい日になってしまった。
隔離中の私は誰にも会うことができなかったが、マンマが私にもお菓子入りの靴下を届けてくれた(泣)。
体調の回復と共に、これまであまり出なかった咳が出始めた。
両目ジワジワした痛みは痛痒さに変わ李、目ヤニが出始めたが、義両親にもらったウィルス性結膜炎用の目薬がよく効いて目の症状はこの日に大分良くなった。
代わって辛くなってきたのが歯肉炎だ。
食べ物を噛むのがしんどくなってき、食欲はあるのに痛みで残すようになった。
タイミング悪くこの日の夕食はプッチャという南プーリアで食べられているモチモチのピザ生地パンのサンドイッチのテイクアウトだったのだが、うっかりピリ辛サラミを選んでしまったため歯茎が痛過ぎてほとんど残してしまった。
発症9日目。セルフチェック陰性!愛息子との再会
1月7日(金)、発症9日目。
歯肉炎が相変わらずズキズキ痛み、歯医者へ行こうかと思うほど心配になってきた。
しかしそれ以外はほぼ元気だった。
私はそろそろ息子の面倒も見ずに1人で部屋に籠もっていることに罪悪感を感じ始めた。
夫と義両親もそろそろ限界のようだったので、セルフチェックで陰性ならFFP2マスクを着用して1階に降りても良いだろうということになった。
セルフチェックは無事陰性!
正確性については疑問だったものの、私の体内のウィルス量はこれでは検知できないレベルまで減ったということを信じてFFP2マスクを付けて5日半ぶりに1階に降りることに。
久しぶりに可愛い息子との時間を過ごすことができたが、このFFP2マスクが非常につけ心地が悪く、耳が耐えられないほど痛くなってしまった。
さらに、マスクを外さなければならない食事時は危険なので正式な検査までは引き続き2階で1人で食べるようにした。
発症から9日、隔離5日半で平和な日々が戻って来た…?
私の回復を本人よりも喜んでいたのは夫と義両親のようだった。
特に地獄だったのが息子のバスタイム。
バスタブが無い1階のシャワールームで息子を入浴させる際は壮絶だったようで、暴れ回った息子にひっくり返されたベビーバスのお湯で床が湖と化したようだ。
さらに夫は後追いの激しい息子を置いてシャワーを浴びることができなかったらしく、5日間シャワーを浴びていないという有様だった(笑)。
正式な検査待ちでマスクを付けなければならなかったが、私が戻って来たことにより夫実家に再び平和な日々が戻って来ると思われた。
…この時は。
発症11日目で未だ陽性。2度目のピークは胃腸炎
歯肉炎は気になるものの、体調はほぼ回復して元気になったので、再び検査をしに行くことに。
1月8日、発症10日目。歯肉炎もピークアウト。もうほぼ元気?
1月8日(土)、発症10日目。
心配していた歯肉炎は若干痛みが和らいだような感じがし、歯医者に行かなくても自然に治る感じがした。
もうほぼ元気で息子の相手もできるようになり、夜にはマンマのためにお好み焼きも作った。(もちろんFFP2マスクは終始着用)
明日再び正式な検査を受けて陰性になれば私も晴れて自由の身だ!
発症11日目。再び検査場へ。
1月9日(日)、発症11日目。
歯肉炎の痛みがまだ残っていることが気になりつつも夫に指定検査場を予約してもらい、朝食後に検査場へ向かった。
先週と打って変わり、イタリアでは年明けに感染が爆発的に拡大した影響でこの日は薬局も屋外検査場も長蛇の列ができていた。
屋外検査場に到着した私達は門の横に建っている小屋で保険証を見せ検査料を支払った。
すると領収書と共にパスワードが書かれた紙を渡された。
結果は受付で聞かれたEメールアドレス宛に送られ、このパスワードは結果の添付ファイルを開けるためのもののようだ。
その後は検査を受けるため、屋外で30分ほど並んだ。
小さい子供がいる場合は車で直接検査のテントの前まで乗り付け、車に乗ったまま検査を受けることができる。
そうとも知らない我が家は普通に並んでしまったので、夫は息子の相手で大変だった。
ようやく順番が回って来、再び鼻と喉に綿棒を突っ込まれて検査は一瞬で終了した。
検査結果は「陽性」
無事検査を終え、今日で晴れて無罪放免だ!
と意気揚々と帰り、夫の家族と一緒にランチを食べる気満々だった私の元に先程の検査結果が届いた。
陽性。
一瞬固まる私。
夫も落胆の顔を浮かべた。
自分がまだ陽性と知り、私は速攻で2階の部屋に引きこもった。
また隔離生活に逆戻りだ。
胃腸炎の始まり。
そしてこの日の昼頃から胃腸の調子がおかしくなってきた。
イタリア料理は全く食べる気にならず、ランチはマンマがご飯を炊いてくれたのでそこにお湯と卵を足して電子レンジにかけ、醤油をかけて卵粥風にして食べた。
それでも半分残した。
夕食は全く食べられる気がしなかったので断った。
発症12日〜13日目。第2のピーク。激しい頭痛に吐き気と嘔吐、下痢
翌日の1月10日(月)、発症12日目。
朝から腹痛と気持ちの悪さを感じて起きることができなかった。
夫は休暇が明けて今日から仕事を再開しなければならなかったが、私は息子の相手をできる状態ではなかった。
夜には悪阻のピークの時のように激しい頭痛と吐き気に襲われ、夫が様子見で電話をかけてくるも一言発しただけでトイレに駆け込みゲーゲー吐くような始末だった。
水を飲んでも吐いてしまった。
頭痛が酷くて眠れず、もしかしたらこれは脱水症状からくる頭痛かもしれないと思ったものの、体を少しでも動かすとまた吐きそうだったので身動きが取れなかった。
心配した夫が義両親の家にあった吐き気止めの薬を持って来てくれたので早速飲んで見たが、その5分後には吐いてしまった。
あまりの気分の悪さに、グッタリしているのに寝付けないほどだった。
今回の新型コロナウィルスの感染で、この日が一番辛かった。
1月11日(火)、発症13日目。
前日ほどの激しい吐き気は治まったものの、この日も何も食べる気にならず、マンマが用意してくれたスープパスタのスープだけを啜った。
その晩になってようやく少し空腹を感じたが、夜は再びプッチャのテイクアウト。
腸にはあまり良くなさそうだったが、久しぶりの食事にかぶりついた。
が、案の定夜中に猛烈な腹痛に襲われ、跳ね起きて何度もトイレに駆け込むハメになってしまった。。
発症15日目、ようやく回復。検査結果も陰性!
最後の最後で猛烈な胃腸炎に襲われたが、これも峠を越すとようやく全てがスッキリし、今度は確信を持って検査場に向かった。
発症14日目。胃腸炎もほぼ回復
1月12日(水)、発症14日目。
まだ下腹のあたりが鈍く痛み、本調子とまではいかなかったが、少しなら息子の相手をできるようになった。
発症15日目。再び検査場へ!
1月13日(木)、発症15日目の朝。
久しぶりに頭痛も喉や目の痛みも歯肉炎も腹痛も無い、爽やかな朝を迎えた。
今日こそは絶対陰性だと確信した。
やはりどこか優れない所がある場合は絶対にまだウィルスが体内にいるのだ。
この日は夫が仕事だったので、義父に屋外検査場まで連れて行ってもらった。
この周辺では感染がピークアウトしたのか、前回と比べると空いていた。
そしてすんなり検査を受け、帰路に付いた。
発症15日目にして陰性!
そしてまた昼時に検査結果が届く。
陰性!
ようやく陰性になった!
発症から15日。両目が痛くなったり歯肉炎が起きたりと、妙な症状を沢山引き起こしてくれたしつこいコロナウィルスはようやく私の体内からいなくなってくれた。
速攻でトスカーナ州へ帰ろうと言う夫
抗原検査では検知できないウィルスがまだ私の体内に残っているかもしれない。
自分のためにも周りのためにも、向こう1週間は様子を見てトスカーナ州へ帰れれば…と思っていたものの、夫からは
「今週末に帰るぞ!」
と言われる。
今週末って…明後日!?
回復したばかり、陰性になったばかりで良いのだろうか?
この不安はまた後に的中することになるが、それはまた次の記事で書こうと思う。