Twitterでフォローして下さっている方はご存知かもしれないが、実は私は現在、妊娠7ヶ月である。
腹の中で活発に動き回る夫Jr.(男の子です)に、たまに膀胱サイドを蹴っぽられて「うごっ」となることもあり、「胎動は感激の瞬間」とよく言うが、私にとっては「胎動は尿漏れ注意」である。。
今日は、妊娠判明当初のことを書いてみようと思う。
イタリア移住後間も無く判明した妊娠
イタリア国立美術学院への奇跡の合格
妊娠が判明したのは、渡伊後5ヶ月の19年10月初頭。
一時帰国や夫の実家、プーリア州レッチェで長いバケーションを過ごし、ようやく腰を据えてイタリア生活が始まった直後のことだった。
また、悲願だったイタリア国立美術学院(Accademia di Belle Arti)の修士課程の合格発表の翌日でもあった。
受験の経緯についてはまた別記事で書こうと思うが、イタリアでただの専業主婦として毎日を浪費していくのが嫌だった私にとって、この美術学院修士の道は希望の光であった。
授業は全てイタリア語、受験の面接もイタリア語と、イタリア語の勉強など全くしてこなかった私にとっては奇跡の合格だった。(種明かしすると幸運なことに試験官の教授が英語で対応してくれたというだけなのだがw)
これには大変驚いた。
驚いたと同時に夫も私もとても喜んだ。
合格発表の翌日に判明した妊娠
しかし、私はこの頃に体調の異変も感じていた。(詳細は後述)
思うところがあり、妊娠検査薬で確認してみると…
陽性!
なんと妊娠していることが判明したのだった!
妊娠超初期の諸症状
後から思えば、この妊娠が判明する2週間ほど前から諸々と体調に異変が生じていた。
妊娠の兆候1:頻尿
妊娠が判明する10日ほど前から酷い頻尿に悩まされるようになった。
夕方になると何度もトイレに行きたくなるのである。
酷い時は夕食中にも席を立たなければならないほど。
これではどこにも出かけられないと心配していたが、この頻尿症状は1週間弱で治まった。
妊娠の兆候2:猛烈な眠気
頻尿が治まると同時に現れたのが猛烈な眠気だった。
やたらと眠い。
とにかく昼は昼寝をしなければ起きていられなかったし、時には夕飯を食べながら寝てしまうこともあった。
特段体調が悪い訳ではなく、とにかくひたすら眠かった。
妊娠の兆候3:下痢と寒気
これは一日のみだったが、朝からお腹を下して酷い下痢になり、さらに寒気を感じる日もあった。
「前癌状態」と言われる侵入性胞状奇胎を乗り越えて
私にとってこれは2回目の妊娠だった。
夫と結婚した2年後、やっと妊娠したと思ったら受精卵の組織が奇胎化してしまい、胞状奇胎になってしまったのだ。
さらに運の悪いことに、胞状奇胎から「前癌状態」と言われる侵入性胞状奇胎へ発展してしまい、3ヶ月間の闘病生活を送ることになった。
イタリア移住前ギリギリまで闘病していた侵入性胞状奇胎
私は18年の春から夏にかけ、妊娠起因の病気、侵入性胞状奇胎(しんにゅうせいほうじょうきたい)という病気と闘っていた。
胞状奇胎とは、受精卵のうち、胎盤になるはずの絨毛組織が異常増殖を起こし、胎児組織も飲み込んで子宮内で膨れ上がっていくという恐ろしい病だ。
厳密には胞状奇胎と部分胞状奇胎があり、微妙に異なるのだが、私の場合は後者の部分胞状奇胎であった。
ほとんどの妊婦は掻破手術(中絶手術)を行えば完治するが、稀に細胞が子宮内にまで入り込んでしまうケースがある。これを侵入性胞状奇胎(侵入奇胎)という。
こうなると、子宮を全摘出するか、増殖する異常細胞を殺すために抗がん剤を使った化学療法を行わなくてはならない。
私の場合は運悪くこのケースになってしまい、子宮全摘は考えられなかったので、予想だにしなかった抗がん剤治療を行うことになった。
副作用で全身に醜い湿疹ができて口の中から喉にかけては粘膜がやられて水も飲めないほど痛み、そのうち髪も抜け出した。
副作用が収まってくるとまた投薬期間が始まり、投薬期間の間は常に頭痛と吐き気との闘いだった。
たった3ヶ月だったが、生きる気力を失いそうになるほど辛かった。
イタリアへの移住の延期。
私の侵入性胞状奇胎が発覚した時には既にイタリアへの移住が決まっており、夫は東京の会社へ退職願を出してしまっていた。
しかしこの闘病生活ではとてもイタリアに行ける状態ではなく、夫は東京の会社に頼み込んで退職日を、イタリアの会社には入社日を延期してもらい、私の闘病に寄り添ってくれた。
運良く投与した抗がん剤が効いてくれ、私は最短の3ヶ月で闘病を終えることができた。
しかしこの後に待ち受けていたのは1年間の経過観察だった。
この期間の妊娠は許されない。そして万が一経過観察期間に再発すれば次に待ち受けているのはもっと強力な抗がん剤投与だ。
夫も私も子供が欲しかったので、30代半ばに差し掛かってしまう私は焦る気持ちで胸が張り裂けそうだった。
夫は先にイタリアへ。9ヶ月間の遠距離婚。
私の闘病が終わったのを見届けると、夫はイタリアへ旅立った。
経過観察期間中は通院しなければならなかったため、私は日本に残った。
毎回の血液検査は祈るような気持ちで臨んでいたが、幸い数値が跳ね上がることもな無事に9ヶ月が経過した。
あと一回の検査で数値に問題が無ければ妊娠解禁、というところまで来た19年5月、私は夫が待つイタリアへやって来た。
7月に最後の検診のために帰国しなければならなかったが、夫も私も仕事のタイミング的に丁度良く、夫が遠距離婚に限界だったこともあったので少しフライイングで渡伊に踏み切ったのだった。
そして7月、最後の検査で陰性だった。
こうして30半ばに差し掛かろうとしたところでようやく妊娠が解禁となったのだった。
待望の妊娠。しかし付き纏う不安
こんな予想だにしなかった闘病の果てに私のお腹の中に宿ってくれた我が子。
しかし、妊娠が判明して喜んでいた矢先に突然胎嚢が変形して異常細胞となって母体を貪り出す、という恐ろしい経験は少なからず私のトラウマになっていた。
また、これから様々な体調の変化が起きようとしている中で美術学院に通い続けることはできるのかという不安もあった。
さらに、私はまだイタリアでの滞在許可証が発行されていなかったので健康保険証が無く、国立病院に行くことができない。(正確には、行けるけど医療費が満額かかってしまう)
美術学院の入学手続きの期限が迫る中、かかりつけの産科医を探すことも急務だった。
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