妊娠12週に入り、悪阻がピークに達しようとしていた頃。
夫の長期出張が入った。期間は3週間。
まだ全く勝手が分からないイタリアの地で悪阻に苦しみながら3週間もどうやって生き抜くか…妊娠中に訪れた最初の中に、夫のマンマとパパが遥か南伊プーリアから駆けつけてくれた。
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妊娠12週。悪阻のピーク中に入った夫の長期出張
イタリアに来て未だ半年。
しかもその内の1ヶ月は日本、2ヶ月は海外や夫の実家で過ごしていたので、未だ地元のことすらよく分かっていない状況で夫に長期出張が入ってしまった。
一人では買い物すらままならない状況
それまで買い物はいつも週末に夫と一緒にエッセルンガ(Esselunga)やカルフール(Carrefour )などの大型スーパーへ行き、1週間分の食料を買い溜めして過ごしていた。
最寄りのスーパーは徒歩1kmと元気ならば難なく行ける距離にあったが、この時は悪阻のピークでベッドとトイレの往復の生活。
こんな状態では自分の食料を確保するための買い物すら行けるかどうか不安だった。
さらに妊娠も未だ安定期に入っていないこの時期に万が一何か起きたら…
自分で救急車を呼び、イタリア語が分からない状況で病院に搬送されるのか?
夫が義両親に来てもらおうと提案
夫も心配でたまらなかったようで、遠い南伊プーリアに住むマンマとパパに来てもらおうと提案してきた。
南伊プーリアのレッチェはイタリアのブーツのヒールの部分。南イタリアの先端にある。
そのレッチェからここヴェルシリアに来るのは、感覚的には鹿児島から東京に来るようなものだ。
そんな遠くからわざわざパパとマンマに来てもらうのは申し訳なくて気が引けたし、さらにザ・イタリアンファミリーであるマンマとパパと、夫抜きで3週間も一緒にやっていけるかも不安だった。
誤解の無いように言っておくが、夫の義両親は二人とも非常に良い人達である。
偏見が無く家族愛に溢れており、日本人妻である私のことをいつもとても気遣ってくれ、帰省する度に温かい気持ちになる。
私は義両親に会って結婚を決めたと言っても過言ではない。
しかしやはり同居となると話は別だ。
文化や生活習慣の違いから、越えられない壁がありそうな気がしていた。
それでも一人でいた時に何かあったことを考えてみると誰かいてくれた方が絶対良いと主張する夫に従い、義両親にお願いして来てもらうことになった。
遥か南伊プーリアからトスカーナへ来てくれた義両親
夫が事情を説明すると、マンマとパパは私のためにプーリアから駆けつけてくれた。
夫が出張に旅立つ前日、夜行列車でレッチェからヴェルシリアのこの街に到着した。
夫は一通り家のことをマンマとパパに説明して車の鍵をパパに託すと、翌日に3週間の長期出張に旅立って行った。
義両親が来てくれたものの、妊娠中のホルモンの変化のせいか心細くて寂しくて堪らなくなり、見送る際には涙が出て来たのを覚えている。
イタリアマンマとパパとの同居生活
こうして夫抜きでのマンマとパパとの同居生活が始まった。
私は吐き気との戦いでほとんど寝室で寝込んでいる状態だったので、家のことはほぼマンマとパパにお任せ状態だった。
マンマは台所を切り盛り
マンマは動いていないと気が済まない性格なので、台所に入るなと言われてしまうととてもストレスが溜まってしまう性分だ。
以前1番上の義兄の家に遊びに行った際、夫婦共働きで不在の義兄夫婦の家でマンマが甥っ子の面倒を見ており、台所を我が家のように使って私に美味しい手料理を振る舞ってくれたのを覚えている。
2番目の兄嫁は台所に入られるのを嫌うので、マンマは2番目の兄嫁の家は窮屈だと以前嘆いていた。
私も本当は他人に自分の台所に立ち入られるのを好かない性格なのだが、この時ばかりは断腸の思いでマンマに台所を明け渡す決心をした。
マンマは我が家の小さな台所で手作りパスタやオーブン料理を沢山振る舞ってくれた。
パパはほぼ毎日日曜大工
夫のパパも同じくじっとしていられない性格で、家でも常に片付けや掃除、家具の組み立てなどで動いていた。
なので滞在中はまだ片付けきれていなかった引越し荷物などを雑多に押し込んだ物置代わりの小部屋の整頓をしてくれた。
ぐちゃぐちゃに物を積んでいた所に金属の棚を組み立て、見違えるほど綺麗に整頓してくれた。
義両親は毎日買い物へ
マンマは買い溜めという概念が無く、その日の食料品はその日に買いに行く。
なので我が家の愛車を使って毎日パパと一緒に買い物へ行った。
台所を明け渡しているので私はもはや冷蔵庫の中の在庫も把握していなかったので、食料品の買い出しもマンマにお任せ状態だった。
ここで笑えるエピソードがあるのだが、マンマは買い物に行く度に私に
「ラ スペーサ(la spesa:買い物)に行くけど一緒に行く?」
と聞いてきてくれた。
しかしイタリア語がからっきしだった私は、隣のリグーリア州の街ラスペツィア(La Spezia)と聞き間違え、てっきり観光に行くのかと勘違いしたのだった。
しかし毎日ラスペツィアに行こうと誘ってくるので、何故そんなにラスペツィアに用があるのか気になり始めた。
そして出張中の夫から電話が来た際に
「毎日ラスペツィアに行こうと誘われるんだけど、ラスペツィアってそんなにいい所なの?」
と聞いてようやくラ スペツィア(La Spezia)ではなくラ スペーサ(la spesa:買い物)であることが分かったのだった。
夕方は昼寝、夕食は作らない
パパとマンマは一日中何かしていないと気が済まないのかと思っていたが、午後15時を回るとソファの上に寝そべり、テレビをつけてお昼寝タイムがやってくる。
そして昼にボリューミーなランチを作る一方で夕食時になってもマンマは台所に立つ気配は無い。
21時を過ぎた頃にようやくランチの残り物などを温めて夕食は簡単に済ませてしまうようだ。
私は20時前には夕食を済ませたいのと和食を食べたいのとで、比較的動ける日は唐揚げや和風オムライスなどを作ってパパとマンマにも振舞った。
こうして自然にランチはマンマ、夕食は私…のような担当分けになった。(私の気分が悪く無い日限定だが)
私が作ったカレーの残りを使って翌日のランチにマンマがカレーラザニアを作ったりと、中々楽しいイタリアン&和食のコラボな日々だった。、
夜は暗い部屋でテレビ鑑賞
軽い夕食を済ませた後、パパとマンマは部屋の電気を消して真っ暗なリビングでソファに寝そべりずっとテレビを見る。
それも大抵は深夜2時過ぎあたりまではずっとそうしているのだ。
特にパパは4時過ぎまでリビングで寝ていることもあった。
コミュニケーションはGoogle翻訳アプリで
イタリア語が話せない私と英語が全く分からない義両親。
どうやって意思疎通を図っていたかと言えば、Google翻訳アプリの音声入力を立ち上げてマンマに喋ってもらい、大体何を言っているのかを把握していたw
返事は、英語入力した文をイタリア語に翻訳してマンマに読んでもらった。(日本語→イタリア語よりも英語→イタリア語の方が大分翻訳の精度が高い)
同居生活の限界
いくらパパとマンマとの関係が良好とはいえ、あまりに文化や生活習慣が違い過ぎ、予想していた通り同居には限界を感じた。
居場所が無い…
私はパソコン作業などをする際はリビングのテーブルを使っている。
それが、やはりパパとマンマがいるとやや居づらくなるのだ。
さらに夜は部屋を真っ暗にしてテレビを見ているので、暗くてパソコをいじる気にならない上にテレビの音が気になって集中して何かすることが出来ない。
そして何より私には一人になれる時間が必要なのだ。
リビングを避ける私にマンマは「一緒にいらっしゃい!」と言ってくれたのだが、結局一人で落ち着きたかったのでずっと寝室に引きこもっていた。
いくつかダメになってしまったキッチン用品
台所には日本から持って来て大事に大事に使っている調味料や和食器、お気に入りの調理器具なんかがある。
これが、勝手の分からないマンマが何の確認もせずに自由に使うものだから…
電子レンジNGの和食器を電子レンジに突っ込まれたり…
ティファール(テフロン加工)の鍋を金属のスプーンでゴリゴリ混ぜられたり…
大事に使っていた高級米酢がサラダにドバドバに使われて一発で無くなってしまったり…
事前に使い方や使って良いかなどを確認してもらえたら良かったのだが、私を煩わせないようにといちいち聞かないようにしていたようだ。(イタリア語での意思疎通が取れないこともあったが…)
しかしそれでもよく分からないまま使われるよりは私に聞いて欲しかった…大事に使っている物があるからある程度私のキッチンの使い方のルールを尊重して欲しかったというのが本音だ。
羽毛布団が…
南伊は暖かいので羽毛布団など使わないのだろう。
私は母からもらった高級羽毛布団をイタリアまで遥々持って来て、不織布の布団専用袋に入れて物置代わりの小部屋に保管していた。
これをパパが整理整頓してくれた際、布団袋から出されて他のシーツ類と一緒に段ボールの中にギュウギュウに詰め込まれていたのだ。
気づいた時にはせんべいのようにぺしゃんこになっていたし、埃やダニから守ってくれる布団袋から出されてしまったので状態も気になった。
何度か天日干ししてようやく元の状態に戻った。
あまり触って欲しくない私の大切な物も小部屋にあったので、これもまた片付ける前に確認して欲しかった…と思った。
それでもつわり期に誰かが側にいてくれることの有り難さ
というように、順風満帆で平和な同居生活というわけにはいかなかったものの、それでも悪阻でゲーゲートイレで吐いている時に誰かいてくれる安心感というのはそれに勝るものがあった。
何よりパパとマンマも南伊では毎日幼い可愛い孫達を預かっており、その生活を置いて私の元へ来てくれたのだ。
慣れないイタリアで悪阻を抱え、独りぼっちで3週間も過ごしていたら精神をやられていたかもしれない。
パパとマンマには感謝しかない。
そして無事夫が3週間の出張を終えて帰ってくると、クリスマスのために一緒にプーリアへ向かった。
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